変身

 

変身前

  

2月に茨城県からやって来た中古車、9009号車になります

当初、新人今田君が乗る予定でしたが変更して川口ドライバーに

  

地味なド・ノーマルなトラック、新車時からの車検点検記録簿が全て揃った低走行距離の掘り出し物を現車確認せずネットで瞬間買い

 

ジャジャーン

3ヶ月後に架装修理屋から戻って来ました

カラーは赤紫色、塗料問屋で調合してサンプル作り

それを見本に板金屋さんが再生塗装、思った通りの色合いで満足

風防外して社名入りアンドン取り付け、お決まりのメッキバンパー、メッキグリル、コーナーメッキ、メッキミラーステー、メッキミラーカバー、風雪防止板も大きいのに取り替えて3連LEDマーカーに交換

  

運転席・助手席側面はメッキ類は無しのスマートに

元々の燃料タンク2個は廃棄して新品1個に、空いた所に90㎝ステン工具箱設置

リアーの樹脂製工具箱も廃棄して90㎝ステン工具箱、エアータンク横にも75㎝ステン工具箱設置の合計3個

エアーサスのちょうちん8個も全て交換

箱前面、門戸、ロッカーも同じボデー色

バックドアは白色塗装でシャシーはブラック

テールレンズはノーマル仕様で派手さを抑える

 

ウイングの看板文字は彦坂号に続き同じデザイン

彦坂君 黒色トラックで仕事デビューしたら、他社のドライバーさん達から「あれ?丸友さん、色変えたの?」って聞かれたそうな・・・

では私がお答えします・・・シルバー色は飽きました(笑) 以上

  

  

乗用車同様にトラックも常にピカピカにしてくれるからありがたい

とりあえず誉めとくな~彦坂君

 

あっ、そうそう 波板ウイング、前の会社の看板跡がくっきり残ってるので 手作業で全面クリヤー剥がしてからアルミ色塗装の大仕事

板金塗装屋さん曰く「こんな面倒くさい仕事は初めてだー」って叱られました・・・

次回からはウイングが綺麗なクルマを買って来ます・・・ね

    

これから未体験であろう大不況と新型ウィルス感染被害・・・

皆さんの健康と普通な生活ができますように

景気良く「五穀豊穣・無病息災」入りトラックを走らせます(笑わないでね)

 

陶器の迫力ある虎

が、輸送中に尻尾が折れた・・・らしい。。。。。

陶器修理専門業者に修理依頼

今日 納品され初めてのご対面

完全に補修跡分からず完璧

  

剥製よりリアルな迫力

古賀愁彩の作品で200万らしい

たまたま格安で落札しラッキー

魔除けの為に 玄関に鎮座です

 

興味ある友人知人の皆様、見に来てね 凄い芸術品だよ⤴

新人研修

今日から本格的な新人研修

5/1・・・横乗り見学

5/2.4.5.6.7.8.9・・・川口ドライバーの横乗り

5/11~研修スタート

  

新人 木村ドライバー

今回は多数の応募者ありましたが「普通の人」応募条件に合格して面接したのは木村さんのみ

一次面接は半分合格

二次面接は奥様も同伴お願いしてほぼ合格

横乗り見学で本人さんのやる気確認して晴れてスタートとなりました

研修期間は2ヶ月から3ヶ月ですが

実際当社の仕事は多種多様な貨物を取り扱い マニアックな附帯作業も多いので完全習得には人にもよりますが2年以上掛かりますかね

だから肉体的精神的ヘタレ根性無しの口だけドライバーは無理(ボロクソ 笑)

けど「普通のドライバー」なら簡単にできる仕事ですよ

 

木村さん、頑張ってな❗

希少バッチ発見②

 

懐かしい物 発見 第2弾

  

1982年(昭和57年) 5月15日・・・当時16才の社会人の俺

スタジオミュージシャンの集いの米国ロックバンド「TOTO」

日本公演の愛知県豊田市貞宝カントリー倶楽部での野外ライブ入場時に渡されたバッチ

 

この時は普通にチケット申込み、同級生の浅田泰男と電車とバスに揺られ行きますが、当時普段の格好はアフロヘアーに赤色刺繍の入った黒カーディガンにピンストライプの黒スラックスにエナメルの白靴のスタイルだったので、青空下のTOTOの野外イメージを想像し アフロ頭に無理くり合わしたTシャツ・ジーパン・コンバースでバッチリキメたつもりが、出掛け途中でアンバランスなスタイルに気づき 勝手に恥ずかしがってた事を思い出す

真ん中が私、当時の若者ヘアースタイルはリーゼントかアフロ

 

右のピンクパンツが私、少年期は痩せて もじゃもじゃ頭・・・今は面影無し

 

司、克彦、工藤、俺、泰男、写真が無い・・・

当時の泰男の写真無いので最近の顔

浅田泰男(水道設備屋)

県立刈谷工業高校中退し、設備屋で働きながら大府高校定時制卒業

なんでもこだわりが強い泰男、日曜に一緒に遊んでいても現場が気になると言い、遊んでる途中で施工中の現場に行き手直し、職人気質丸出し性格なのと地元先輩・同級生の独立ブームと相まって、彼も二十代で独立する

 

レインボーにTOTOと「洋楽ロック」続きで、アレ?浜田省吾・矢沢永吉は?と思った方に・・・

音楽に目覚めたのは小学5.6年生頃、偶然テレビで見た米国ガールズバンド「ランナウェイズ」

ボーカルのシェリーが下着姿で歌う”チェリーボンブ”に純粋小学生の脳天にカミナリ落ちイチコロコロ➰

プレイヤー無いのにお年玉でLP買い、隣の家の「てんとう虫プレイヤー」で聴いていたのが始まり

中学生になると深夜放送のラジオ番組「オールナイトニッポン」を聴き、笑福亭鶴光の “えかーエエのん~”で勝手に興奮、徐々に大人の階段を上っていきましたね

当時、オーディオブームでマセタた同級生(必ず兄貴が居る)が読んでる「FMレコパル」と「サウンドレコパル」を借りオーディオ情報を仕入れる

学校帰りに友達の家にお邪魔して勝手に兄貴のオーディオでTOTOの”ハイドラを”聴き、高音の澄みきった音と低音の抜け具合を生意気にも皆で評論してましたね(笑)

泰男の家には名器と言われるヤマハ1000Mスピーカーのオーディオシステムがあり、ビートルズのレコードは親父さんか兄さん達のモノと思われますが、中坊の俺はビートルズ聴いても興味湧かなく もっぱらズンチャカドンドンの米国ロック系だったな

 

中学卒業して働きだす(大府高校定時制3年中退→刈谷東高校通信制3ヶ月で中退)と直ぐに大府駅前のオスカのオーディオ屋に入り浸り試聴三昧

社会人(金の卵と言われ大手T自動車系列入社→1年後に飽きて辞める)3ヶ月後にローンで購入したパイオニアのプレイヤーにカートリッジはタイプシェアのなんたらかんたら(忘れた)、プリメイアンプはヤマハA8 、スピーカーはコーラル、チューナーはトリオ

勿論、プレイヤーとスピーカーはコンクリートブロックの上に鎮座

TOTOの”ハイドラ”に”ターン・バック”に”聖なる剣”、レインボー、ジャーニー、ビリー・ジョエル、パット・べネター、クリストファー・クロス、サードワールド、マーティン・バリン、浜田省吾、矢沢永吉を聴く日々、何を血迷ったのかアフロにアロハシャツで海外青年協力隊の説明会に参加、中卒の俺は場違いに気づくと同時に人生の壁にぶつかった事に挫折感を味わい悶々としていた少年時代でした

18で長距離ドライバーになり「仕事命」になるともっぱら聴くのは山本譲二とテレサテンのカセットテープ

自宅のオーディオセットは弟に譲り、洋楽は自然に遠退き現在に至る

 

いつかは クラッシク音楽を聴ける生活したい・・・

希少バッチ発見①

 

懐かしい物 発見

  

1981年(昭和56年) 8月23日 ・・・当時15才の社会人の俺

リッチーブラック・モア率いる「レインボー」日本公演の名古屋市公会堂ライブの時

入場係員か誰かかは 忘れましたが貰った記念バッチ

 

この時はね、前日の22日にラジオでレインボーの当日券発売❗を偶然聞き

同級生の菅原司を誘いダシュで名古屋市公会堂へ

 

午後イチには公会堂の入口に到着

冷たい大理石の上にそのまましゃがみこみ徹夜態勢

夜中には台風接近の暴風雨で最悪状態・・・

しかし、金欠少年のウチらに優しく接してくれる同じファンの大人達からの夜食と酒をご馳走になり 今でも兄さん達の顔をはっきり覚えていますね

翌23日のが午前中に整理券が配われ、一旦帰宅し夕方には公会堂に戻り入場、当日券は立ち見の階段通路でしたが、なんせ初ライブデビューがハードロックってことで鳥肌ブンブンで興奮していた記憶があります

  

16才の菅原司(普段着は特攻服 笑)

この後、彼は

直ぐに東京へ・・・赤羽根の日本料理店で板前修行、六本木のクラブ瀬◯奈でボーイ等々

住居は港区白金だけど、雑居ビルの一室で風呂無し1K生活

18の時に家出した私は居候、都会のド真ん中の銭湯の湯が黒色だったのには驚いたな

東京生活が窮屈に感じ 私は馴染めず、大府に戻り長距離ドライバーに

でも関東帰りの週末は たまに白金の貧乏部屋に立ち寄ってましたね

 

二十歳頃には二人とも生活は落ち着き、司が企画した沖縄旅行の思い出は蒼く懐かしいし、後のダイビングにハマるきっかけの旅行でした

 

たまに電話でお互いの夢や悩みを語り

気づけば、私は運送屋 彼は葬儀屋

 

遠く離れていても縁が切れないな・・・

 

 

※オマケ「いちご葬祭 菅原司」で検索すると真面目な動画が見れます