希少バッチ発見②

 

懐かしい物 発見 第2弾

  

1982年(昭和57年) 5月15日・・・当時16才の社会人の俺

スタジオミュージシャンの集いの米国ロックバンド「TOTO」

日本公演の愛知県豊田市貞宝カントリー倶楽部での野外ライブ入場時に渡されたバッチ

 

この時は普通にチケット申込み、同級生の浅田泰男と電車とバスに揺られ行きますが、当時普段の格好はアフロヘアーに赤色刺繍の入った黒カーディガンにピンストライプの黒スラックスにエナメルの白靴のスタイルだったので、青空下のTOTOの野外イメージを想像し アフロ頭に無理くり合わしたTシャツ・ジーパン・コンバースでバッチリキメたつもりが、出掛け途中でアンバランスなスタイルに気づき 勝手に恥ずかしがってた事を思い出す

真ん中が私、当時の若者ヘアースタイルはリーゼントかアフロ

 

右のピンクパンツが私、少年期は痩せて もじゃもじゃ頭・・・今は面影無し

 

司、克彦、工藤、俺、泰男、写真が無い・・・

当時の泰男の写真無いので最近の顔

浅田泰男(水道設備屋)

県立刈谷工業高校中退し、設備屋で働きながら大府高校定時制卒業

なんでもこだわりが強い泰男、日曜に一緒に遊んでいても現場が気になると言い、遊んでる途中で施工中の現場に行き手直し、職人気質丸出し性格なのと地元先輩・同級生の独立ブームと相まって、彼も二十代で独立する

 

レインボーにTOTOと「洋楽ロック」続きで、アレ?浜田省吾・矢沢永吉は?と思った方に・・・

音楽に目覚めたのは小学5.6年生頃、偶然テレビで見た米国ガールズバンド「ランナウェイズ」

ボーカルのシェリーが下着姿で歌う”チェリーボンブ”に純粋小学生の脳天にカミナリ落ちイチコロコロ➰

プレイヤー無いのにお年玉でLP買い、隣の家の「てんとう虫プレイヤー」で聴いていたのが始まり

中学生になると深夜放送のラジオ番組「オールナイトニッポン」を聴き、笑福亭鶴光の “えかーエエのん~”で勝手に興奮、徐々に大人の階段を上っていきましたね

当時、オーディオブームでマセタた同級生(必ず兄貴が居る)が読んでる「FMレコパル」と「サウンドレコパル」を借りオーディオ情報を仕入れる

学校帰りに友達の家にお邪魔して勝手に兄貴のオーディオでTOTOの”ハイドラを”聴き、高音の澄みきった音と低音の抜け具合を生意気にも皆で評論してましたね(笑)

泰男の家には名器と言われるヤマハ1000Mスピーカーのオーディオシステムがあり、ビートルズのレコードは親父さんか兄さん達のモノと思われますが、中坊の俺はビートルズ聴いても興味湧かなく もっぱらズンチャカドンドンの米国ロック系だったな

 

中学卒業して働きだす(大府高校定時制3年中退→刈谷東高校通信制3ヶ月で中退)と直ぐに大府駅前のオスカのオーディオ屋に入り浸り試聴三昧

社会人(金の卵と言われ大手T自動車系列入社→1年後に飽きて辞める)3ヶ月後にローンで購入したパイオニアのプレイヤーにカートリッジはタイプシェアのなんたらかんたら(忘れた)、プリメイアンプはヤマハA8 、スピーカーはコーラル、チューナーはトリオ

勿論、プレイヤーとスピーカーはコンクリートブロックの上に鎮座

TOTOの”ハイドラ”に”ターン・バック”に”聖なる剣”、レインボー、ジャーニー、ビリー・ジョエル、パット・べネター、クリストファー・クロス、サードワールド、マーティン・バリン、浜田省吾、矢沢永吉を聴く日々、何を血迷ったのかアフロにアロハシャツで海外青年協力隊の説明会に参加、中卒の俺は場違いに気づくと同時に人生の壁にぶつかった事に挫折感を味わい悶々としていた少年時代でした

18で長距離ドライバーになり「仕事命」になるともっぱら聴くのは山本譲二とテレサテンのカセットテープ

自宅のオーディオセットは弟に譲り、洋楽は自然に遠退き現在に至る

 

いつかは クラッシク音楽を聴ける生活したい・・・